神戸地方裁判所 昭和60年(ワ)1904号 判決 1990年6月29日
原告(反訴被告)
天野忠宣
被告(反訴原告)
谷本稔
主文
一 原告(反訴被告)と被告(反訴原告)間で、原告(反訴被告)の被告(反訴原告)に対する別紙事故目録記載の交通事故に基づく損害賠償債務が存在しないことを確認する。
二 反訴原告(被告)の反訴請求を棄却する。
三 訴訟費用は、本訴反訴を通じ、被告(反訴原告)の負担とする。
事実
以下、「原告(反訴被告)」を「原告」と、「被告(反訴原告)」を「被告」と、それぞれ略称する。
第一当事者双方の求めた裁判
一 本訴
1 原告
(一) 主文第一項同旨。
(二) 訴訟費用は、被告の負担とする。
2 被告
(一) 原告の請求を棄却する。
(二) 訴訟費用は、原告の負担とする。
二 反訴
1 被告
(一) 原告は、被告に対して、金一一四二万七八四七円及びこれに対する内金三四四万三一八円につき昭和六一年四月一八日から、内金二一万七五四〇円につき昭和六二年七月一日から、内金三〇万円につき同年一一月五日から、内金四六六万七七六九円につき昭和六一年五月一三日から、内金二八〇万二二二〇円につき昭和六三年七月一六日から、いずれも支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
(二) 訴訟費用は、原告の負担とする。
(三) (一)につき仮執行宣言。
2 原告
(一) 主文第二項同旨。
(二) 訴訟費用は、被告の負担とする。
第二当事者双方の主張
一 本訴
1 原告の請求原因
(一) 別紙事故目録記載の交通事故(以下、本件事故という。)が発生した。
(二) 原告は、原告車を発進させるに当たり自車前方の安全を確認すべき注意義務に違反する過失により、右事故を惹起した。
(三) しかしながら、被告には、現在右事故による損害が全く存在しない。
しかるに、被告は、原告の右主張を争い、右損害の存在を主張している。
(四) よつて、原告は、本訴により、原告と被告間で、原告の被告に対する本件事故に基づく損害賠償債務が存在しないことの確認を求める。
2 請求原因に対する被告の答弁
請求原因(一)、(二)の各事実は認める。同(三)中被告に現在本件事故による損害が全く存在しないことを否認し、同(三)のその余の事実は認める。同(四)の主張は争う。被告に現在右事故による損害が存在することは、後記反訴において主張するとおりである。
二 反訴
1 被告の反訴請求原因
(一) 本件事故が発生した。
(二) 右事故は、原告の前方不注視の過失により、惹起された。
(三) 被告の本件事故による受傷内容及びその治療経過は、次のとおりである。
(1) 頸椎挫傷、腰椎挫傷。
(2) 別紙入退院経過表記載のとおり合計八〇日間入院し、昭和六一年五月一三日まで通院した。
(3)(a) 被告の本件受傷は、昭和六一年五月一三日症状固定した。
(b) 被告には、右症状固定に伴い障害等級一二級一二号該当の後遺障害が残存した。
(四) 被告の本件損害は、次のとおりである。
(1) 治療費 金三一〇万二二二〇円
(a) 未払分 金二八〇万二二二〇円
明芳クリニツク分 金二六〇万一〇〇〇円
林眼科医院分 金二〇万一二二〇円
(b) 立替分 金三〇万円
明芳病院に対する本件治療費合計金二九〇万一〇〇〇円の内金三〇万円を、被告において立替支払つた。
(2) 入院雑費 金九万六〇〇〇円
入院期間八〇日中一日金一二〇〇円の割合。
(3) 診断書作成料 金六〇〇〇円
春日記念病院分 金三〇〇〇円
井上外科病院分 金三〇〇〇円
(4) 休業損害 金一二三万五八五八円
(a) 給与分 金九七万七〇四六円
ⅰ 被告は、本件事故当時、訴外大海運輸株式会社(以下、大海運輸という。)の作業員として勤務し、他方訴外丸栄海事株式会社の代表取締役として右会社を経営していたところ、本件受傷治療のため、昭和六〇年一一月一七日から昭和六一年二月二四日までの合計一〇〇日間、右両会社の勤務に従事できず休業した。
ⅱ 被告は、大海運輸において、本件事故前の昭和六〇年八月一日から同年一〇月三一日までの三か月間に七四日稼働し、一日当たり金一万一八八三円の給与を得ていた。
ⅲ 右事実に基づくと、被告の本件休業損害の内給与分(ただし、大海運輸分のみ。)は、金九七万七〇四六円となる。
(b) 賞与減額分 金二五万八八一二円
被告は、本件休業により、大海運輸から支給された次の賞与の内次の金額を減額された。
ⅰ 昭和六〇年一二月一〇日分 金四万一二七二円
ⅱ 昭和六一年七月一〇日分 金二一万七五四〇円
(5) 後遺障害による逸失利益 金二六六万七七六九円
(a) 被告に障害等級一二級一二号該当の本件後遺障害が残存していることは、前記のとおりである。
(b) 被告が本件事故当時大海運輸において一日当たり金一万一八八三円の給与を得ていたことは前記のとおりである。しかして、同人は、それに加えて、少なくとも年二回各金四〇万円の賞与を受給し得た。
したがつて、同人の本件症状固定時における年収は、金四三六万六二二〇円と推認できる。
(c) 被告の本件後遺障害による労働能力喪失率は、一四パーセントであり、右喪失期間は、五年である。
(d) 右各事実を基礎として、被告の本件後遺障害による逸失利益の原価額を、ホフマン式計算法により算定すると、金二六六万七七六九円となる。(新ホフマン係数は、四・三六四三。)
(6) 慰謝料 金三三二万円
(a) 入通院分 金一三二万円
(b) 後遺障害分 金二〇〇万円
(7) 弁護士費用 金一〇〇万円
(8) 被告の本件損害の合計額 金一一四二万七八四七円
(五) よつて、被告は、反訴により、原告に対して、本件損害合計金一一四二万七八四七円及びこれに対する請求の趣旨記載の各内金につき同記載の各年月日から各支払ずみまで民法所定年五分の割合による各遅延損害金の支払を求める。
2 反訴請求原因に対する原告の答弁
反訴請求原因(一)、(二)の各事実は認める。同(三)(1)の事実は否認。被告には、その主張するような本件事故による傷害が発生していない。同(三)のその余の事実は全て争う。特に、被告が主張する後遺障害は、本件事故との間の相当因果関係がない。同(四)の事実及び主張は全て争う。同(五)の主張は争う。
被告車が本件事故(追突)時前方に押し出されていない点、右事故時被告の身体運動が存在せず、仮に存在したとしても同人が主張する本件受傷内容を発生させるような種類の運動でなかつた点、被告車が本件事故によつて受ける衝撃度、右衝撃度によつて被告が受ける受傷の可能性等を総合すると、結局、被告は、本件事故によりその主張する受傷をしていないというべきである。
第三証拠関係
本件記録中の、書証、証人等各目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
第一本訴
一 請求原因(一)、(二)の各事実、同(三)中被告が本件事故による損害の存在を主張し、原告と争つていることは、当事者間に争いがない。
二 しかしながら、被告にその主張にかかる本件事故に基づく受傷が認め難く、したがつて又、同人のそれに起因する本件損害の全てが肯認し得ないことは、本件反訴に対する後記判断のとおりである。
三 右認定説示によれば、原告の本訴請求に理由があることは明白である。
第二反訴
一 本件事故の発生及び原告の責任原因
1 反訴請求原因(一)、(二)の各事実は、当事者間に争いがない。
2 右事実によれば、原告には、民法七〇九条に則り、被告が本件事故により被つた損害を賠償する責任があるというべきである。
二 そこで、本件最大の争点である、被告が本件事故により同人の主張にかかる受傷したか否かについて、判断する。
1 被告は、同人において本件事故により頸椎挫傷・腰椎挫傷の受傷をした旨主張するところ、被告の右主張事実にそう証拠として、成立に争いのない甲第五号証、第九号証、第一二号証、第二一、第二二号証、第二五号証、乙第一、第二号証、第三号証の一、二、第五号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二七号証の記載内容により真正に成立したものと認められる甲第一一号証、被告本人(第二回)尋問の結果により真正に成立したものと認められる乙第一四号証、第一六ないし第二二号証の各一、二、被告本人(第一、第二回)尋問の結果(ただし、右甲第五号証、同第九号証、同第二五号証の各記載内容中、被告本人の右各供述中後記認定に反する各部分は、にわかに信用することができないから、右各部分を除く。)によれば、一見被告の右主張事実は、肯認され得るかの如くである。
2(一) しかしながら、成立に争いのない甲第三、第四号証、第六ないし第八号証、第一〇号証、第一五、第一六号証の各一ないし三、第一七号証の一ないし四、第一九号証、第二四号証、第二六ないし第三〇号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第二号証、原告本人尋問の結果(ただし、右甲第四号証、同第八号証、同第二四号証の各記載内容中、原告本人の右供述中、後記認定に反する部分は、にわかに信用することができないから、右各部分を除く。)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の各事実が認められる。
(1) 原告車はオートマチツク構造の車両であるが、原告は、本件事故直前、右事故現場付近において、自車前方の信号の標示にしたがつて停止したが、その際、右車両のギアはドライブの状態にしていたところ、車内に入つた虫を追い出そうとしてブレーキペダルから足を外してしまい、そのため右車両が所謂クリーピング現象(オートマチツク車がアクセルを踏まない状態で発進する現象)を起こして発進し、約四・二メートル進行して、右車両の前方に停止していた林車に追突し、右林車が約二・一メートル前方に押し出されて、同じく右林車の前方に停止していた被告車に追突して、右事故が発生した。
(2) オートマチツク車は、停止状態でも、ある程度回転する駆動力を与えているため、ブレーキペダルを踏まなくてもゆつくり前進するというクリーピング現象が発生することがあるが、その加速度は、通常発進の場合の三分の一程度である。
なお、通常発進の場合の加速度は、〇・一Gであり、急発進の場合のそれは、約〇・三Gである。
(3) 原告車の製造販売関係会社(マツダ株式会社)の関係資料によれば、原告車の本件事故直前の速度(クリーピング現象によつて約四・二メートル前進した時の速度)は、時速約六キロメートルと推認されるところ、右速度を基礎として、自動車工学上の見地にしたがい、そこで通常使用される計算式を適用して、原告車に追突された林車、林車に追突された被告車が、各追突によつて押し出される速度(ただし、林車の場合は、被告車に追突した時の速度もある。)を算定すると、林車の場合、押し出される速度が時速四・四八四キロメートル、約二・一メートル前進した時の速度が時速約三・四六メートル(転がり抵抗によつて減速される。)、被告車の場合、林車から押し出される速度が時速約一・六四七キロメートル、となる。
(4)(a) 右(3)の場合、被告車が林車に追突された時の被告車の床最大加速度は、〇・六二G、この時被告の頭部にかかる最大加速度は、〇・九八五G、床平均加速度は、〇・二三三Gである。したがつて、右床平均加速度は、前記急発進の場合よりも数値的には小さい。
(b) しかして、右の場合、被告の頭部にかかる衝撃力は、約〇・二三三Gと推認される。
(c) 自動車工学上では、実車実験データーに基づき、乗員の頸部が弛緩状態において、車体加速度が五~六G位になると、所謂鞭打ち症発生の可能性が生ずるが、同三~四G位では、先ず受傷は考え難く、同一~二G位では、全く受傷しないと判断されている。
(5) ただ、追突によつて当該車両の乗員に発生する頸椎挫傷等の所謂鞭打ち損傷の有無は、必ずしも右衝撃力のみによつて判断できるものではなく、右乗員の年齢、受傷時の姿勢等によつて異なるところ、本件においては、右(4)で認定した自動車工学的条件(特に、被告の頭部にかかつた衝撃力。)にもかかわらず、被告の本件事故当時の姿勢等から同人に本件受傷が発生したことを肯認させるに足りる証拠がない。即ち、この点に関する証拠は、前記1掲記の証拠中被告の供述を内容とする各証拠しかないところ、被告の右各供述内容は、要するに、同人は、本件追突時、被告車の運転席で、シートベルトをせずに、軽くブレーキペダルを踏んだ姿勢であつたが、右追突により、ハンドルもしくはフロントガラスに同人の頭部を打ちつけたり、当時かけていた眼鏡を飛ばされたりしたというにあるが、同人の右供述内容は、なお右自動車工学的条件に照らし信用することができない。
(なお、被告は、本件事故の約三時間後に行われた右事故の実況見分において、被告車の本件追突による移動が全くなかつた旨指示説明している。)
(6) 被告車の後部バンパーに本件事故後見られる損傷も、本件事故に基づくものとは認め得ない。蓋し、被告車に追突した林車の前部バンパーの状況が接触痕(前部バンパー前面のほぼ全長に、細く上下に二本ずつ合計四本印されているところ、右痕跡は、擦過痕ではなく、塵埃にまみれているバンパーに接触して、その箇所の塵埃が取り去られて生じた形態。)に過ぎないのに、林車よりも構造的に大きくて丈夫な被告車後部バンパーの上面と側面だけが波型に変形したりすることはあり得ないからである。(林車は、長さ三〇五センチメートル、幅一二九センチメートル、高さ一六〇センチメートル、車両重量五七〇キログラムの軽四輪トラツク。被告車は、長さ三八三センチメートル、幅一五八センチメートル、高さ一三五センチメートル、車両重量八三〇キログラムの普通乗用自動車。)
(二) 右認定に照らすと、被告の本件受傷に関する前記主張事実については、その存在につき未だ確信を抱くに至らない。
むしろ、右認定にしたがえば、被告の主張にかかる本件受傷は発生しなかつたと認めるのが相当である。
3(一) 被告の本件受傷についての右結論は、前記1掲記の証拠における医療関係文書(例えば、前掲乙第一、第二号証、第三号証の一の各診断書、第三号証の二の診療報酬明細書。)の各記載内容から認められる関係各医師の本件治療行為と矛盾するかの如くである。
(二) しかしながら、このような現象は、次のとおりの、当裁判所に顕著な事実である、交通事故受傷者に対する現在の医療事情に基づくというべきである。
即ち、医師は、交通事故損傷の一般的特殊性のため、交通事故受傷者の訴える自覚症状を否定し去るだけの根拠を持たないこともあり、事故後は右受傷者の自覚症状のみであつても患者の生命や健康のために万一の手落ちがあつてはならないとの観点から、患者の訴えにかなり大きな比重を置き加療している。このような場合、患者の訴えが、仮に誇大であつてもその訴えが強い場合、担当医師は、むげに放置して置けず、治療を続けねばならないのである。
このような現在の医療事情及び弁論の全趣旨を総合すれば、本件において被告の治療に当たつた各関係医師も、その例に漏れなかつたと推認できる。
右観点からすれば、右各医師の治療行為の存在も、本件についての右結論を阻害するものでない。
三 右認定説示に基づき、被告の本件事故に基づく受傷の事実が肯認できない以上、被告の反訴請求は、その余の主張について判断するまでもなく、右認定説示の点で既に全て理由がないことに帰する。
第三全体の結論
以上の次第で、原告の本訴請求は、全て理由があるからこれを認容し、被告の反訴請求は、全て理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九五条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 鳥飼英助)
事故目録
一 日時 昭和六〇年一一月一四日午前八時〇五分頃
二 場所 神戸市東灘区御影塚町四丁目一番一号先路上
三 加害(原告)車 原告運転の普通乗用自動車
四 被害(被告)車 被告運転の普通乗用自動車
五 事故の態様 原告車が、本件事故現場において、折から前方に停車中であつた訴外林勝嘉運転の普通貨物自動車(軽四輪車。以下、林車という。)に追突し、次いで、右林車が、その前車である被告車に追突した。
以上
入退院経過表
<省略>